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『エンド・ゲーム』S・ベケット公演 [アート・美術関連]

サミュエル・ベケット作『エンド・ゲーム』を見た。

当方《不条理演劇》なるものを初めて見たのだが、たいへんオモシロかった。

 

「赤城の山も今宵限り」などの大衆演劇とは全く違う。

筋が無い。お涙頂戴も無い。

ソノヨウなものをのみ演劇と思っている方にとっては、演歌をのみ音楽と心得ている方がクラシックを聞くようなものかもしれない。

クラシックでもシェーンベルクなどの無調音楽になると「ついていけない」という方も少なくないが、昨晩『エンド・ゲーム』を見つつ、シェーンベルクのオラトリオ『ヤコブのはしご』を思い出していた。

 

登場人物は4人。

主人公は、立ち上がることのできない盲人。常に「痛み止めの薬」を飲むことが思いにある。障害をもち痛みに苦しめられている病人にふさわしく、生きることを厭うている。しかし、薬のことが常に念頭にあるほど生きることに執着してもいる。ソノヨウな人間にふさわしく、言うことがアンビバレンツだ。自分の言いたいことを口にし、それをすぐに否定する言葉を続ける。

そのような主人に振り回される使用人は、主人の要望に対して無愛想だ。主人に対すべきふさわしい敬意で主人を遇していない。使用人の立場にいながら主人以上の立場にいるかのようでもある。

また、使用人は主人を殺してしまいたいほどに嫌っている。主人のもとからとっとと逃げ出したくもあるのだが、主人から支給される食事に縛られて、主人との腐れ縁から脱け出すことができないのだ。

主人は車椅子に縛られ盲目であるゆえに「外の世界」を知ることができない。「外の世界」を知ることは、まったく使用人に依存している。

主人は「外の世界」の様子を見るようにせがむ。報告させるためだ。それで、使用人に「外の世界」を望遠鏡で覗き見させる。しかし、ソノヨウにさせつつも、外の世界はナンラ変わりばえのしないツマラナイものであることを主人は承知している。使用人も、「外の世界」がいつもとオナジヨウニ変わりばえのしないことを十分承知している。承知しているが、主人の要望に沿って覗き見るのである。ふたりとも、ソノヨウな自分たちの行動や願望のムナシサに気づいている。

つまり、生きることに倦怠を感じている。

要するに早く終わらしてしまいたい閉塞した状況に自分たちがあることを二人とも承知しているのだ。早いとこ〈ジ・エンド〉にしたいのだ。

使用人は、腐れ縁から出て行くことを仄めかす。が、なかなか決行できない。主人の呼び出す笛に縛られることがナラワシになっているからだ。はやく終わり(エンド)にしたいが、エンドにすることを躊躇う。腐れ縁の関係が、身についてしまいナラワシになってしまっているからだ。

 

あと二人の登場人物は、主人の両親らしい。既に故人となり、亡霊として登場している。セサミストリートのクッキーモンスターのように二人ともバケツの中から登場する。コチラも腐れ縁と主人は感じているようだが、それらの亡霊たちとの関係は断ち切ることはできない。

 

最後に、使用人は意を決して家を出て行く。・・・ジ・エンドだ。

主人は、止血用の布を顔に当てる。(死人の顔にキレをかけるように、自ら顔に布キレをかける)。・・・これもジ・エンドだ。

亡霊たちのバケツの蓋の上には目覚まし時計が置かれる。これもジ・エンドの象徴か?

 

全体を通して感じたのは・・・

井伏鱒二の『山椒魚』の山椒魚とカエルの関係である。

自らの意志に拠らず閉塞された環境に入ってしまった人間たちのアガキのようなもの・・・

ザット一度見たきりで、脚本にあたっていないので印象や感想の正確さはアヤシイものなのであるが・・・

それでも、たいへん今日的な新しさをもった演劇という印象をもった。「ベケットに時代が追いついた」という表現はタダシイと思う。

柄本明ら出演者たちの演技も秀逸。劇場に居て共に空気を吸いたかった。ザンネン。


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