はじめも終わりも無い? [スピリチュアルな話題]
人間は儚(はかな)い存在だ。
無限の過去と無限の未来のハザマにボコっと生まれ、ホンノちょっと生き、ホンノちょっと世界をかすめて、スグ「さよなら」する。
人生は、小林一茶の辞世の句にあるように、「たらい(産湯の)からたらい(湯灌の)にうつるチンプンカン」であり、「・・線香の煙とともにハイさようなら」(十辺舎一九)とアッケなく終わる。
宇宙に対して人間は、完全に弱者である。アチラの方が先に存在し、しかもデンと存在している。
「太陽や月を作ったのはオレだ」という方がいたら出てきて欲しいものだ。(出てきたらすぐに病院に行くようすすめられるだろうが・・・)
ソノ弱い人間は宇宙を知るべく努めてきた。巡回バスさながら大気圏の外に行き来できるようにもなったが、人間の知りえたことが増大すればするほど、知りえていないことの大きさをイヨイヨ悟らざるをえなくなっている。
思うに、孫悟空が、お釈迦様に挑戦して、キント雲に乗り、宇宙の果てまで行ったつもりで「ドンナモンダイ」といい気になっていたところが、実は、お釈迦様の手のひらから出ることさえしていなかったというたとえで、宇宙と人間との関係をあらわせるように思う。
知の探求をする人間は、自分の住む宇宙をナントカ掌握しようとしてきたが、つまるところ孫悟空と変わらない。
ソノ宇宙でさえ始まりがあったことが定説となっているが、それに対して、宇宙を創始した神は永遠の存在であると聖書にはある。はじめもなく終わりも無い存在と教えている。
「はじめもおわりも無い」存在・・・
これは人間の時間感覚では理解しにくい。なぜなら、物事には必ず初めと終わりがあり、事物はすべて移ろい行く(去る)という感覚が身に染みているからだ。
実際、時間の感覚は物体の推移から推し量られる。
太陽や月は、地上に住む人間にとっての暦となってきた。
日の出があり、日の入りがあり、その移動の時間の長短をはかり、このアタリから日が出るなら季節はこれこれであるとやってきた。
しかし、宇宙的な見地からいけば、実は、時間というものはあるようで無いといえる。
個々の物体としては移動しており、その移動にかかる時間を計測することは可能だが、「系」として考えると移動してはいないことになる。(『系(system)』というのは一定の相互作用または相互連関を持つ物体の集合。)
具体的にいうなら・・・
地球は太陽の周囲を動いている。地球の太陽をまわる公転に費やす時間は計測できる。その周期は秒単位で正確であり変わらない。個としては動いているが、その動き(周期)は一定である。千年たっても万年たっても変わらない。太陽の周りを回る地球の公転という現象は太陽と地球の相互の関係としては一定である。動いているようで、動きが無いといえる。
聖書によると、宇宙の創始者は永遠の存在であるという。
モーセは「山々が生まれる前から、あなたが地と世界を生み出す前から、まことに、とこしえからとこしえまで、あなたは神です」と詩篇を残している。(90篇2節)
聖書は、物質宇宙を創造したのは神(固有名:エホバ)であると教えている。
その創造の開始以前は、当然ながら、宇宙に物質は無かったことになる。
物質が創造される以前、創造者の他になにも存在しなかった時、宇宙にある時間とは神の意識の中に推移するものでしかなかったに違いない。
宗教(心)のはじまりとはそのような永遠の存在と関わり、永遠性にあづかりたいという願いのあらわれであるように思う。
ソレは自分の弱小さを自覚してはじめてできることのように思う。
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