『下山の思想』の元祖? [自然に親しむ]
原発事故のあと、五木寛之がものした『下山の思想』という著作がある。当方、未読であるが、だいたい書いてあることは見当がつく。
「見当」をもってして、ソノ元祖について、記すべきではないのかもしれないが、鶴見俊輔・司馬遼太郎の対談(1979年)に、ソレらしきものを見出した。
昨日、当該ブログで更新した〈脚本家・倉本聰が「今」「最も尊敬する人物」〉である、ペペこと、元ウルグアイ大統領の考えとも繋がるものにちがいない。 http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-11-04
もっとも、人間の本性・本質を考えるなら、当然至極の道筋にちがいない。仮に、デジカメ生産量やその技術開発で世界トップの座を保っていたとしても、デジカメで、命をながらえさせることはできない。デジカメを売って得た収入で喰うという道筋もあるにはあるが、デジカメそのものは喰えない。金輪際、喰えない。(食べられる方は、どうぞ食べてみてください)。そして、喰わなければ、人間は死ぬ。
人間の本性、優先順位を考慮するなら「下山」しかないのでは・・・
(以下、鶴見・司馬対談の掲載されて書籍とその引用)
*******
司馬:またウランバートルの話になりますが、モンゴル人にはカメラをもった外国人を見るのがいちばん苛立つのね(笑)。おれたちには目がある、モンゴル人は全部記憶するんだと・・・。わたしと同行した人がカメラをもっていたばかりに、酔っぱらい3人にからまれたんですよ。
これは停頓の思想とでも呼ぶべきものだと思いますね。もういまの生活水準で満足している。だから写真機まで欲しくない。彼らの暮らしは、司馬遷が『史記』に書いた匈奴の生活とほとんど同じなんです。それでいいっていうんだ。もし消費文明をめざすということになれば、国情に合わせてゆっくりゆっくり、100年ほどかけてそこまでもっていく。それが停頓の思想なんですね。
停頓の思想は人類にとって一種の塩味になっていると思います。人類は停頓しようにもしないから、そこには停滞をこいねがう心理が働く。それが停滞の思想を生み出したとも言えるね。しかし、その塩味がなければ、人類はめちゃくちゃになっていたでしょう。
日本の場合は、停滞が左翼のかたちをとっている。これはおもしろいですね。もうこれ以上の進歩はけっこうです。公害を出す火力発電所はもうつくるのはよしましょう。石油も買わないですむ生活をしましょう・・・。
鶴見:ビッグ・サイエンスを批判していますね。
司馬:ビッグ・サイエンスが批判されることなくのさばったら、手に負えない怪物になってしまう。停頓=停滞の思想は、それを防ぐブレーキとしての役目を果たしている。
鶴見:進歩というのは、より大きなエネルギーを使うことでしょう。より大がかりな機械じかけで、よりエネルギッシュな暮らしをすることは、いまを愉しむこととは違うんですね。だから、それを無限にやっていたら、人類は早めに終わってしまうんじゃないか。
そういう意味で言うと、イギリスはかなり長いあいだかかって、19世紀の末から退歩の思想を準備してきた。その思想にしたがって、植民地を次々と手放してきたんです。これは日本の人口停滞と同じように、思想的な達成であって、たんに斜陽の国と一言でかたづけることはできない。三大進歩国家と呼ばれるアメリカ、ソ連、日本は、あいもかわらず進歩の幻想にしがみついているんですね。
p184-6
(後略)
*********
1)司馬遼太郎x鶴見俊輔(『昭和を語る: 鶴見俊輔座談』晶文社発行から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-03
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(下記書籍、当方未読ですが・・)
「見当」をもってして、ソノ元祖について、記すべきではないのかもしれないが、鶴見俊輔・司馬遼太郎の対談(1979年)に、ソレらしきものを見出した。
昨日、当該ブログで更新した〈脚本家・倉本聰が「今」「最も尊敬する人物」〉である、ペペこと、元ウルグアイ大統領の考えとも繋がるものにちがいない。 http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2015-11-04
もっとも、人間の本性・本質を考えるなら、当然至極の道筋にちがいない。仮に、デジカメ生産量やその技術開発で世界トップの座を保っていたとしても、デジカメで、命をながらえさせることはできない。デジカメを売って得た収入で喰うという道筋もあるにはあるが、デジカメそのものは喰えない。金輪際、喰えない。(食べられる方は、どうぞ食べてみてください)。そして、喰わなければ、人間は死ぬ。
人間の本性、優先順位を考慮するなら「下山」しかないのでは・・・
(以下、鶴見・司馬対談の掲載されて書籍とその引用)
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司馬:またウランバートルの話になりますが、モンゴル人にはカメラをもった外国人を見るのがいちばん苛立つのね(笑)。おれたちには目がある、モンゴル人は全部記憶するんだと・・・。わたしと同行した人がカメラをもっていたばかりに、酔っぱらい3人にからまれたんですよ。
これは停頓の思想とでも呼ぶべきものだと思いますね。もういまの生活水準で満足している。だから写真機まで欲しくない。彼らの暮らしは、司馬遷が『史記』に書いた匈奴の生活とほとんど同じなんです。それでいいっていうんだ。もし消費文明をめざすということになれば、国情に合わせてゆっくりゆっくり、100年ほどかけてそこまでもっていく。それが停頓の思想なんですね。
停頓の思想は人類にとって一種の塩味になっていると思います。人類は停頓しようにもしないから、そこには停滞をこいねがう心理が働く。それが停滞の思想を生み出したとも言えるね。しかし、その塩味がなければ、人類はめちゃくちゃになっていたでしょう。
日本の場合は、停滞が左翼のかたちをとっている。これはおもしろいですね。もうこれ以上の進歩はけっこうです。公害を出す火力発電所はもうつくるのはよしましょう。石油も買わないですむ生活をしましょう・・・。
鶴見:ビッグ・サイエンスを批判していますね。
司馬:ビッグ・サイエンスが批判されることなくのさばったら、手に負えない怪物になってしまう。停頓=停滞の思想は、それを防ぐブレーキとしての役目を果たしている。
鶴見:進歩というのは、より大きなエネルギーを使うことでしょう。より大がかりな機械じかけで、よりエネルギッシュな暮らしをすることは、いまを愉しむこととは違うんですね。だから、それを無限にやっていたら、人類は早めに終わってしまうんじゃないか。
そういう意味で言うと、イギリスはかなり長いあいだかかって、19世紀の末から退歩の思想を準備してきた。その思想にしたがって、植民地を次々と手放してきたんです。これは日本の人口停滞と同じように、思想的な達成であって、たんに斜陽の国と一言でかたづけることはできない。三大進歩国家と呼ばれるアメリカ、ソ連、日本は、あいもかわらず進歩の幻想にしがみついているんですね。
p184-6
(後略)
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1)司馬遼太郎x鶴見俊輔(『昭和を語る: 鶴見俊輔座談』晶文社発行から)
http://kankyodou.blog.so-net.ne.jp/2015-11-03
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(下記書籍、当方未読ですが・・)