「日高六郎・95歳のポルトレ」黒川創著 [読んでみたい本]
以下、井波律子による書評。
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戦後という異郷を生きた知識人の軌跡
日高六郎は独自の姿勢によって、戦後日本の社会運動に関わってきた正真正銘の知識人にして、すぐれた社会学者である。本書は、一九七〇年代末、十代のころ、日高夫妻と出会い、以来三十有余年、彼らと親交のある作家、黒川創が聞き手となり、その問いかけに答えて、日高六郎がみずからの生の軌跡をいきいきと語ったもの。対話の進行とともに、日高六郎の考え方や感性の「原形質」が浮き彫りにされるさまは、圧巻というほかない。
日高六郎は一九一七年(大正六年)、五人兄弟の四男として中国の青島(チンタオ)で生まれた。父は東京外国語専門学校(現在の東京外国語大学)で中国語(北京語)を学び、北京の日本公使館に勤務したのち退職、独立して貿易商となる。中国人との信頼関係を何より重視する気骨のある人物であり、母は白粉(おしろい)けのない聡明な女性だった。また、東京文理科大学に入学、学生新聞の主筆となった、十歳余り年上の長兄のもたらす知識も、日高六郎に陰に陽に影響を与えた。
こうした家庭に育った彼は、多様な人種が共存する都市、青島のインターナショナルな雰囲気もあって、十代の初めからクロポトキンやトルストイを読んだという。青島時代にスポットをあてた冒頭のくだりは、青島という「外地」つまりは異郷において幼少期を過ごしたことが、日高六郎のユニークな感性を養ったことを明らかにする。
旧制中学卒業後、旧制東京高校を経て、一九三八年、東京帝国大学文学部に入学して社会学を専攻、卒業後、陸軍に召集されるが、病気のため除隊、一九四二年、東大の副手となる。以来、一九六九年、全共闘運動のさなか、東大に機動隊が導入されたことに抗議して、東大教授を辞職するまで、二十七年にわたって在職した。在職したとはいえ、日高六郎は社会学の旗手として活躍する一方、さまざまな社会運動にコミットしつづけた。その間、彼は一貫して一元化的な発想を否定し、多種多様な考え方が共存しうる磁場を求める姿勢を崩さなかった。あの青島の町がそうであったように。
こうしてみると、日高六郎は長らく在籍した東大に対して、ひいては戦後日本の社会状況に対しても、つねに一体化できず、違和感を抱きつづけてきたように見える。彼にとって、青島が根本的に異郷であるのと同様、日本もまた異郷にほかならなかったのであろう。
日高六郎は東大辞職後の一九七一年、パリに居を移すが、三年後、暢子夫人が日本赤軍への協力容疑で逮捕されるというハプニングがおこる。容疑は数日で晴れたものの、帰国のやむなきに至り、十五年間、長期滞在のビザがおりず、パリに戻ることができなかった。その間、京都の大学で教鞭(きょうべん)を取り、ようやく一九八九年、パリに戻る。かくして十七年が経過するが、夫妻ともども体調すぐれず、二〇〇六年また京都へ。まさに波瀾万丈(はらんばんじょう)の軌跡である。
しかし、こうした軌跡を語る口調は、「春風駘蕩(しゅんぷうたいとう)」といいたくなるほど、穏やかそのものだ。日高六郎は「僕は、戦前、戦後を見てきた。つまり、僕にとっての戦後史というものも、僕という人間を通じて、体内をくぐって現われる戦後史だからね。単純に言えば、体内にある感覚や判断が、僕の思想であったり、ものさしであったりする」という。
何物にもよらず、自らの身体感覚によって、九十五年の歳月をみじんの湿っぽい感傷もなく、晴朗に生きぬいてきた、この知識人のポルトレは稀有(けう)の輝きに満ち、まことに感動的である。
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パリ郊外に住む90歳の社会学者は、今の日本をどう見ているか・・・
http://bookend.blog.so-net.ne.jp/2007-01-10-1