秋山仁センセ、お久しぶりです [ニュース・教育]
新聞にキタナイおじさんが出ていると思ったら秋山仁センセだ。(失礼!)
当方、あだ名して「ロン毛のジン」(「赤毛のアン」をもじって)と呼んでいる。
だいぶお年をめして、白髪になられたご様子であるので、これからは、「ロン毛のオジン」と呼ぶことにしよう。
ところで、センセ、教育に相変わらず熱心である。談話を読んでいくと熱が伝わってくる。いつぞや、アコーディオンを得意気に演奏していらっしゃる様子を拝見したが、教育は、感動だ!と、持論を奏でているかに思える。
掲載紙は「日経」(3・13)。駿台予備校の宣伝だ。
そこで、アチラとこちらが比較されている。
「欧米の学生が大学で伸びる要因は、学ぶ楽しさを知っているか、論理的に考える習慣が身に付いているかどうかが大きいと思います。諸外国の大学生は大学に大きな目的を持って入学し、そのために4年間ほぼ勉強に専念します。学ぶべき対象と自分の好奇心が合致し、主体的に学ぶ姿勢ができているのです。」
これは当方最近経験したことだが、某国立大学に聴講する機会があって、現役の大学生を見る機会があった。率直な、感想、受けた印象。残念なことだが、「これが大学生!」というものであった。50オヤジ(当方のことです)が自分の同年齢当時を思い出しても、「おさないな!」という印象であった。せいぜい、高校生程度にしか見えないのである。きっとそれ相応の勉強はして難関をかいくぐり、試練の期間を経て大学に入ってきたのだろうが、そのような苦労の陰のようなものも感じられない。キャッキャしていて、学生らしくないのである。
ついでに言えば、(社会学のお偉い先生を他大学から招いての一般参加の講演会であったが)、地元大学の先生方のお偉い先生に対する接し方やお偉い先生のウケを狙った俗っぽい話にも嫌な感じがした。
最近、『教養脳を磨く』で、茂木・林両センセが、イギリスの日本人サークルのツマラナサについて語っているのを読んだが、その印象とダブるものだった。
話がだいぶ逸れてしまったが、センセ(もちろん秋山センセ)の談話のなかで、大学生らしからぬ日本の大学生に大学生らしくなるための秘訣のようなモノが示されていた。アチラの高校生の話である。この高校の過程が日本の大学生に欠けているように思う。それで、大学生が高校生のようなのではないのかと読んで思った次第。以下に引用する。
「米国のエリートが多く通っている寄宿制の高校では、まず、公正であることが徹底され、他人のいじめなどの不正行為を見て見ぬふりをしただけで即退学になる。人を陥れたり、悪口なども当然ご法度。そして、ボランティアが盛んに推奨され、社会をじかに見ることで、法律、政治、サイエンスなど、自分がもっと勉強して人の役に立つ人間にならなくてはという意識を育てる。こうして、まず一人の人間としての在り方を問うた上で、研究者、作家、様々なプロを招いての講演や書物などを通じて知的好奇心を大いに喚起し、学ぶ意欲をかき立てているそうです」
(最後の「そうです」が伝聞のカタチで、情報の信ぴょう性がちと気になるが、センセが言うからにはソウなのであろう。)
さらにセンセは続ける。「ところが日本の若者たちは本を読まない。読書だけでなく、映画館や劇場に足を運び、コンサートや展覧会、講演会に行くことも少ない。」
そうだろな、と思う。読書をはじめとした、圧倒されるような経験に乏しく、過保護にされ、成績さえ良ければチヤホヤされ、社会のモラルから多少逸脱しても大目に見られ、受験対策テクニック主導による知識集めに専念してきただけでは、社会人として幼さが残るのはどうしても仕方のないことのようにも思う。
センセは最後に、「何かをやってみようという気持ちは、すべて感動から始まるのです。若い人にはドンドン自分が面白いと思うもの、大切だと思えるものを貪欲に探し求めてほしい。」
自分のホントにやりたいことを見出し、その社会的な価値をわきまえて、将来、社会を担うべく真剣に学問に取り組む学生は、おのずと大人の雰囲気を醸し出していくにちがいない。
当方、あだ名して「ロン毛のジン」(「赤毛のアン」をもじって)と呼んでいる。
だいぶお年をめして、白髪になられたご様子であるので、これからは、「ロン毛のオジン」と呼ぶことにしよう。
ところで、センセ、教育に相変わらず熱心である。談話を読んでいくと熱が伝わってくる。いつぞや、アコーディオンを得意気に演奏していらっしゃる様子を拝見したが、教育は、感動だ!と、持論を奏でているかに思える。
掲載紙は「日経」(3・13)。駿台予備校の宣伝だ。
そこで、アチラとこちらが比較されている。
「欧米の学生が大学で伸びる要因は、学ぶ楽しさを知っているか、論理的に考える習慣が身に付いているかどうかが大きいと思います。諸外国の大学生は大学に大きな目的を持って入学し、そのために4年間ほぼ勉強に専念します。学ぶべき対象と自分の好奇心が合致し、主体的に学ぶ姿勢ができているのです。」
これは当方最近経験したことだが、某国立大学に聴講する機会があって、現役の大学生を見る機会があった。率直な、感想、受けた印象。残念なことだが、「これが大学生!」というものであった。50オヤジ(当方のことです)が自分の同年齢当時を思い出しても、「おさないな!」という印象であった。せいぜい、高校生程度にしか見えないのである。きっとそれ相応の勉強はして難関をかいくぐり、試練の期間を経て大学に入ってきたのだろうが、そのような苦労の陰のようなものも感じられない。キャッキャしていて、学生らしくないのである。
ついでに言えば、(社会学のお偉い先生を他大学から招いての一般参加の講演会であったが)、地元大学の先生方のお偉い先生に対する接し方やお偉い先生のウケを狙った俗っぽい話にも嫌な感じがした。
最近、『教養脳を磨く』で、茂木・林両センセが、イギリスの日本人サークルのツマラナサについて語っているのを読んだが、その印象とダブるものだった。
話がだいぶ逸れてしまったが、センセ(もちろん秋山センセ)の談話のなかで、大学生らしからぬ日本の大学生に大学生らしくなるための秘訣のようなモノが示されていた。アチラの高校生の話である。この高校の過程が日本の大学生に欠けているように思う。それで、大学生が高校生のようなのではないのかと読んで思った次第。以下に引用する。
「米国のエリートが多く通っている寄宿制の高校では、まず、公正であることが徹底され、他人のいじめなどの不正行為を見て見ぬふりをしただけで即退学になる。人を陥れたり、悪口なども当然ご法度。そして、ボランティアが盛んに推奨され、社会をじかに見ることで、法律、政治、サイエンスなど、自分がもっと勉強して人の役に立つ人間にならなくてはという意識を育てる。こうして、まず一人の人間としての在り方を問うた上で、研究者、作家、様々なプロを招いての講演や書物などを通じて知的好奇心を大いに喚起し、学ぶ意欲をかき立てているそうです」
(最後の「そうです」が伝聞のカタチで、情報の信ぴょう性がちと気になるが、センセが言うからにはソウなのであろう。)
さらにセンセは続ける。「ところが日本の若者たちは本を読まない。読書だけでなく、映画館や劇場に足を運び、コンサートや展覧会、講演会に行くことも少ない。」
そうだろな、と思う。読書をはじめとした、圧倒されるような経験に乏しく、過保護にされ、成績さえ良ければチヤホヤされ、社会のモラルから多少逸脱しても大目に見られ、受験対策テクニック主導による知識集めに専念してきただけでは、社会人として幼さが残るのはどうしても仕方のないことのようにも思う。
センセは最後に、「何かをやってみようという気持ちは、すべて感動から始まるのです。若い人にはドンドン自分が面白いと思うもの、大切だと思えるものを貪欲に探し求めてほしい。」
自分のホントにやりたいことを見出し、その社会的な価値をわきまえて、将来、社会を担うべく真剣に学問に取り組む学生は、おのずと大人の雰囲気を醸し出していくにちがいない。