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「半落ち」の横山秀夫さんに会ってきた [講演会]

某大学主催の講演会で横山秀夫さんにお会いした。

指揮者のエリアフ・インバルを彷彿とさせる。

53歳ということだが年齢よりずっと上に見える。

知的な重労働はカラダにも重く刻印を残すのかもしれない。

執筆の心労がかさみ、過去に心筋梗塞をおこし、臨死体験も経験している。

日航機墜落現場の死屍累々を見、自分でも死の瀬戸際に立ったことなど、みな背負っている姿にも見えた。


演題は「人はなぜ小説を読むのか」というものだ。

その問いの横山さんの答えを(当方なりに)強引にまとめるなら・・・

小説に示される他者(つまり著者)の世界・人間観をとおして自分のソレを点検するため。

(横山さんご自身は「他者の創造物を通して自分を読む・自分をモニターする。」など、表現していた。)



横山さんは、以下のように問いかけ、推論していかれた。


リアルとはなにか?

小説がリアルで現実がフィクションではないのか?

自分自身のみリアルで、他の事象はすべてフィクションでは?

現実=リアル、小説=フィクション、しかし、現実も小説も、どちらも同じ水平線上にあるように思える・・・


世界の諸事象を「わかっている」かのように言うのは傲慢である。本当に身近な者の考え・感情でさえ、思い違いしていたことに気づかされることがある。他者の言動の点と点を想像力でつないで他者のことを理解するように努め、理解したかのように思っていても全くハズレていることがある。

我々各人は世界の諸事象の点と点を結んで、各人が「わかっている」ように思い込んでいるだけで、実際には異なった世界を見ている。

想像力をとおして真理に近づくことはできても決して到達することはできない。

「世界はこうである」とではなく、「ワタシが(想像力をめぐらせ)つくりあげている世界はこうである」としか言えないのではないか。


我々はなんらかの組織・集団に帰属している。自分の帰属する組織や集団の影響力は大きい。我々の世界・人間観にも多大な影響を及ぼす。その影響を受けるままに偏った見方に堕していないかどうかを小説を読むという行為をとおして点検することができる。


(ヒドク大ざっぱなマトメで、横山さんに聞かせたら、ホントニそんなこと言った?と言われるかもしれない。その点、講演の点と点を当方は以上のように結んだと言い訳するしかない。)



講演後の談話のなかで、「覚悟の感じられない小説はつまらない」という話しが出た。「自分だけいい子になっているような…」作品は「覚悟がない」のだと言う。

医師会に呼ばれての講演の際、「医者は非常識だ」と横山さんが話をするとどっと笑ったのだそうだ。「他の人はそうかもしれないが、自分は例外だと思っているので笑うのだ」と横山さんは言う。


そんな話しを聞きながら、ホンモノの作家の言葉は諸刃の剣であって、自分自身をもっとも深く傷つけているものなのだと思った。

なるほど、横山さんが年齢不相応に老成してしまうのも無理はない。

(以下のURLは『有隣堂』のもの。横山さんの談話が出ています)
http://www.yurindo.co.jp/yurin/back/yurin_452/yurin4.html



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