SSブログ

石原慎太郎の指摘する「日本の政治の本質的危機」 [政治・雑感なぞ]

先の記事で紹介した書籍『五衰の人』のなかで石原慎太郎現都知事は重要な役割を果たしている。三島由紀夫の対談集『尚武のこころ』のあとがきで三島は石原との対談を評価して次のように記す。

(以下は『五衰の人』からの抜粋)
****************

「今回読み返してみて、非常に本質的な重要な対談だと思われたのは、石原慎太郎氏との対談であった。旧知の仲ということにもよるが、相手の懐に飛び込みながら、匕首(あいくち)をきらめかせて、とことんまでお互いの本質を露呈したこのような対談は、私の体験上もきはめて稀である。」

この三島・石原対談(初出は「月刊ペン」昭和44年11月号)のタイトルは「守るべきものの価値」だった。


三島:石原さん、今日は「守るべきものの価値」について話をするわけだけど、あなたは何を守ってる?

石原:……ぼくは、やはり自分で守るべきものは、あるひは社会が守らなければならないのは、自由だと思ひますね。

という問答に始まり、

三島「そのために死ねるものといふのが、守るべき最終的な価値になるわけだ」

石原「何のために死ねるかといへば、それは結局自分のためです」

三島「最終的に守るものは何だらうといふと、三種の神器しかなくなっちゃうんだ」

石原「三種の神器って何ですか」

三島「絶対、自己放棄に達しない思想といふのは卑しい思想だ」

石原「身を守るということが?……。ぼくは違ふと思ふ」

三島「だけど君、人間が実際、決死の行動をするには、自分が一番大事にしてゐるものを投げ捨てるということでなきゃ、決死の行動はできないよ。君の行動原理からは決して行動は出てこないよ」

といった刺激的な応酬が盛られている。


それから二タ昔以上の時間を隔てて平成7年4月14日、衆議院本会議の演壇に立った石原代議士は、日本の政治の本質的危機と信じるものを指摘して言った。

すべての政党、ほとんどの政治家は、今はただいかにみずからの身を保つかという最も利己的で卑しい保身の目的のためにしか働いていません。……この日本は、いまだに国家としての明確な意思表示さえできぬ、男の姿をしながら実は男子としての能力を欠いた、さながら、去勢された宦官のような国家になり果てています。それを官僚による政治支配のせいというなら、その責任は、それを放置している我々すべての政治家にこそあるのではありませんか。(「官報」号外、平成7年4月14日)

これが高坂正堯氏との対談のオウム返しであることは、先に述べた。つまり石原氏は25年前に「保身のみの政党と政治家」に嫌悪を感じ、それは政界を引退するまで一貫して変わらなかったことになる。政界入りのごく初期に政治家の保身主義を発見し、以後25年間それを確認し続け、いわば数学的帰納法によって「政治家ハ保身主義ナリ」との真理に達したのだろう。強引な結論といえばいえるが、それを確認するのに25年を投じるとは少しつまらない人生の過ごし方で、気の毒な気がする。

しかし、翻って問えば、政治家だけが特別な存在だったのだろうか?選挙のたびに彼らを選んだ日本国民もまた、この25年間一貫して保身主義者を好んできた人々ではなかったか。

議員バッジを捨てた石原氏は「文芸春秋」(平成7年7月号)に寄稿した。タイトルは「何を守り何を直すか」というものだった。これもまた四半世紀の時間を挟んで、『尚武のこころ』で三島さんが発した質問をオウム返しにしたような問いかけである。ただし記事の中で石原氏は「国家というものの第一義は、国民の生命と生活を守ることである」と書き、直すべきものとして「あてがいぶちの占領保護下に培われた安易な他力本願のかもしだした『ごっこ』の世界」を挙げている。守るべきものが、かつての「自由」または「自分」から「国民の生命と生活」へと変化した。

石原氏は、また、抽象的な提案をもって結論している。

「既成の政治が国家の意思を造形出来ずにいるなら、国民こそが政治を構成する素の粒子として、あくまで自らのためにこの国と、そこに住む自分自身の命運について一人一人考え直すべきに違いない。」

やや漠然とした呼びかけである。三島さんと対談したからといって、べつに必ず三島さんに影響されてくれと求めるわけではない。だが右の結論は、さながら一度も三島由紀夫に会って語ったことのない人が書いた文のようである。

*************



五衰の人―三島由紀夫私記 (文春文庫)

五衰の人―三島由紀夫私記 (文春文庫)

  • 作者: 徳岡 孝夫
  • 出版社/メーカー: 文藝春秋
  • 発売日: 1999/11
  • メディア: 文庫



トラックバック(0) 

トラックバック 0