前田慶次と立花宗茂 〈日本史・あの人の意外な「第二の人生」(PHP文庫)から〉 [歴史雑感なぞ]
上記イメージ書籍には90人ほどの「第二の人生」が取り上げられている。そのうち、これまで当方のまったく見聞きしてこなかった人物のふたりが前田慶次と立花宗茂。前田慶次には〈五十過ぎで武名を上げた「傾奇者」、生涯を賭ける主君や友と生きる〉、立花宗茂には〈改易二十年後に取り戻した領地!浪人生活を支えた家臣との厚い絆〉と表題がついている。伝説めいた部分が多いようだが、なかなかどうして魅力的な人物たちである。
以下は、その抜粋。
〈慶次は「東の関ヶ原」と呼ばれる慶長出羽合戦(1600)に(直江)兼続とともに参戦。最上義光の領地に攻め込み、長谷堂城を取り囲んだ。「長谷堂城の戦い」と呼ばれるこの合戦で、慶次は見事な武勇を見せた。 / この戦いの最中、兼続に「関ヶ原で石田三成が敗れた」との報がもたらされた。戦意喪失した兼続は自害しようとしたが、慶次がこれを阻止。「一軍の将が、このように気弱でどうする」といましめ、みずからが長谷堂城からの撤退戦の殿(しんがり・最後方の部隊)を買って出たという。 / 慶次は寡兵で追撃する最上勢と戦った。朱槍を振るって追いすがる軍勢を押しとどめ、兼続らを無事に撤退させたという。この撤退戦での奮戦と敵を翻弄する戦術とで、さらに武名を上げたとの話もある。・・略・・ / 関ヶ原の戦いで破れた上杉家は、120万石から米沢30万石へと大幅に減封されている。このとき、慶次にはまたも仕官の話が多数寄せられたという。撤退戦でさらに武名を轟かせた傾奇者を、高待遇で迎えたいと考えた武将が多かったのだ。 / しかし、「主君は景勝しかいない」と確信していた慶次はこれをすべて断り、景勝や兼続とともに米沢へと向かった。米沢では兼続とともに和歌を詠んだり、文学を楽しんだりと、風流で悠々自適な生活を送ったという。(p60.61)〉。
〈見かねた東の最強武将・本多忠勝の口利きにより、ようやく江戸城で幕府の仕事にありついたのは、宗茂三十八の頃、その後、徳川秀忠の御伽衆に就任し、東北に領地を与えられて大名に復帰している。 / 1620(元和6)、改易からおよそ二十年過ぎ、五十代半ばになっていた宗茂に新たな転機が訪れる。徳川から「もう逆らうこともあるまい」と判断され、柳川など旧領地を返してもらったのだ。西軍大名で旧領を返してもらった人間は宗茂ただひとりなのだから、いかに信頼されていたのかがわかる。 / 領地を取り戻し、家臣たちを呼び戻し始めると屋敷が狭くなったが、「殿、改築して広くしましょう」という家臣に、「いや、狭いままでいいよ。広くしたらお前たちに顔を合わせることが減って疎遠になる。それは嫌だ」と返したという(p129、130)。〉
どうも、当方が、魅力を感じているのは、ふたりともに、『殿(しんがり)』を進んでつとめることができるほどの武人であると同時に、文学にも通じた風流人だったからのようである。
立花宗茂―将軍相伴衆としての後半生― (宮帯茶人ブックレット)
- 作者: 岡 宏憲
- 出版社/メーカー: 宮帯出版社
- 発売日: 2018/01/16
- メディア: 単行本