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「シューシャイン・ボーイ」 その2 [ドラマ]

録画しておいた「シューシャイン・ボーイ」を見たら、「解説放送」のナレーションが入っている。

ちょうどシナリオを読んでいるようなカタチになるのだろう。その場面場面の説明が入るのである。

さすがに感動が薄れてしまう。水が入るようなものである。それでも、なお涙なくして見られない。よくできたドラマであるとあらためて思う。

放映の最後の解説によると、すでにいくつかの賞を受賞しているという。やはり良いものは良いのである。

主人公の名は鈴木一郎。そのありきたりな名の持ち主が、ひとりの老人から世界一の存在として賞賛される。原作者にとっては、マリナーズのイチローのことが念頭にあるのだろう。ありきたりな名ではあるけれど、その「世界のイチロー」と同じの名の持ち主が、ある個人にとっては「世界のイチロー」以上の値打ちをもつ場合のあることが示される。たとえ、その一個人がただの靴磨きではあったとしてもである。

新宿のガード下で靴みがきをする老人は、その同じひとつづきの土地の上で戦後をずっと生きてきた。東京の成長を見てきた。B29の焼夷弾攻撃で焼け野原となった東京のその同じ土のうえで、その頃のことを忘れずに生きてきた。人間としての肌の温みを忘れ、人でなしの「鬼」となって高みを目指しのし上がってきたナリアガリたちのつくってきたビルの連なる都会の下層で、なお「人」として生きてきたのである。

優勝馬のオーナーとなるほどの社会的な地位を得た鈴木一郎は、靴磨きの老人の子どものようにして育てられた。空襲の火の中、戦災孤児となった男の子に「一郎」という名を与えたのも老人である。しかし、老人は、高みを目指すように一郎を励ます。

一郎は、高みを目指しつつも、老人から受けた「人」としての肌のぬくみを周囲の人に分け与えて生きてきた。会社社長となり子供も巣立った一郎は、老人を、自宅に父親として呼び寄せようとする。ガード下の靴磨きに土下座して懇願する。恩返しのためだ。しかし、老人は、自分は「親ではない」と一郎の申し出を断る。土下座して断る。

銀行の合併を機に、あらたに人事課長となった男は、仲間の首を切る役目を嫌い銀行を辞める。辞めて、なるべく人間とかかわりたくないと始めた仕事が、一郎の運転手。

「たかが運転手」となった元人事課長と一郎。ただの「運転手」となった男とその妻子、元同僚、元部下との関係のなかで、話が展開する。

人間の尊厳とはなにか。仕事に貴賎はなかったはずではなかったか。人間が「鬼」ではなく「人」としてあるとはどういうことか。親であるとは子であるとは何をもっていえるのか・・・。

わだかまりはいよいよわだかまり、見るものを「当事者」としてドラマに巻きこみ、一緒にぐるぐると考えさせずにはおかない。


それにしてもドラマ中、大滝秀治の存在感はすばらしい。出ている場面はほんのわずかでしかないのだ。最後の、一郎宛の手紙の朗読。世界中の男どもが、自分のおやじからこんな言葉を聞きたく思っているのではないだろうか。いや、男どもだけでなく誰もが、こんな誉め言葉をうけたいと思っているのではないだろうか。不特定多数の誰かの賞賛ではなく、自分の愛する家族からの賞賛をなによりも欲しているのではないだろうか。その文面は大滝秀治その人の文章のような気がする。原作ではどうなっているのだろう。原作の意図に反しない枠のなかで大滝に文面が任されたのではないだろうか。井上ひさしの「紙屋町さくらホテル」初演のなかで演じた天皇の名代(密使)としての旅の薬売り役の大滝を思い出した。そこでの、天皇の名代としてスパイ活動をする自分の目は天皇の目であり自分の耳は天皇の耳であり・・・と言うところのせりふ回しとたいへんよく似た印象を受けたのだ。

饒舌になってしまった。見そびれた方には、ザンネンでしたとしか言いようがない。


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