哲学的センスの10の条件 [本・書評]
昨日につづいて、中島義道氏による《哲学的センス》の項を引き写してみる。
中島氏は、条件を 以下のとおり 10 挙げている。
(1)哲学的センスをもっているか否かは、まずわれわれの最も基本的な世界了解の枠組みを、どこまで取り払うことができるかにかかっている。
ほとんどの人は、世界了解の根っこを崩し去ることはない。
自分が存在すること、個体が同一性を保っていること、空間が広がっていること、人類(他者)がここ数百万年地上に生息していたこと、等等を漠然と信じている。
哲学的センスの持ち主はこれらの枠組を徹底的にしかも単に理論的にではなく体感的に疑うことができる。
(2)とはいえ、漠然とすべてを懐疑の渦の中に投入することが哲学的センスなのではない。
デカルトのように真理を求めることと表裏一体となった懐疑が必要なのだ。
存在や認識、あるいは時間や自我や善悪という伝統的テーマに、他のことが思考不可能になるほど徹底的に引き回されることが必要なのだ。
よって、いかに天才的芸術家であろうと超一流の科学者であろうと、以上の問いに躓かないかぎり、哲学的センスを具えているとは言えない。
(3)言い換えれば、哲学的センスとは、世界を解体する打ち所を押さえているセンスであり、解体作業計画に情熱を燃やすセンスである。
まったく新たな世界を構築するために、この世界を徹底的に解体しようという野望をもつ者である。
(4)しかも、それは空想へと物語へと非常識へと飛翔するセンスではなく、例えば「今とは何か」という単純な問いに留まるセンスである。
そこに無骨に留まり、そこから抜け出ることを拒否するセンスである。
(5)哲学的センスの持ち主は、科学者のように手際よい回答を目指さない。
答えやすいように問いを変形しない。
無理に割り切らない。
対象の割り切れなさをもちこたえる。
答えがないかもしれないことを薄々知りながら、無謀にもどうにかして答えようとする。
こうした非能率的な非合理的なセンスである。
(6)しかも、正確さを求め明晰さを渇望するセンスである。
答えがないかもしれないことを厳密に語り尽くそうとする。
答えがないかもしれないからこそ、それを「求め」つづけるセンスである。
(7)それは、また救われたい衝動を押さえつける強靭なセンスであり、われわれの世界が残酷無比のものであり、救いようのないものであろうとも、それが真実ならそれを引き受けようというセンスである。
救済や幸福より真理を優先させようとするセンスであり、ここが宗教的センスとは異なる。
(8)したがって、哲学的センスの持ち主はみずからの体感に沿った言語を駆使して、みずからの世界への態度を語り尽くそうとする。
彼は言語に怠惰ではなく勤勉であり、議論に怠惰ではなく勤勉である。
つまり、哲学的センスとはみずからの感受性に固執しながらも他者とのコミュニケーションに対して開かれているセンスである。
(9)哲学的センスは行為するセンスである。
生活と思索とを一体化しようとするセンスである。
言葉に責任をもつセンスであり、安全なところではなくみずからをあえて危険なところに追いやって語るセンスである。
(10)哲学的センスの持ち主は、傲慢ではなく謙虚であり、おのれの思索および生活の絶望的な貧しさを知っている。
おのれが何も知らないことを知っている。
おのれが道徳的に正しくないことを知っている。
しかし、いやだからこそ、彼はどこまでも真理を求めつづけ善を求めつづけるのだ。
彼はけっして「これでいい」と言うことがない。
****************
これでは、ソクラテスの妻ならずとも悲鳴をあげざるをえないだろうと思われもするのだが・・・、
それでも、坂口安吾の言葉を借りるなら「空にある星をひとつ欲しい」と願って、竹竿を振り回す者がなかにはいてもいいように思う。
もっとも、そういう御仁は探しても、なかなかいないというのが実状だろう。
星を欲しいと願うというより、星に魅せられて一生を棒に振るくらいの資質の持ち主でないと、ホンモノにはなれないにちがいない。
中島氏は、条件を 以下のとおり 10 挙げている。
(1)哲学的センスをもっているか否かは、まずわれわれの最も基本的な世界了解の枠組みを、どこまで取り払うことができるかにかかっている。
ほとんどの人は、世界了解の根っこを崩し去ることはない。
自分が存在すること、個体が同一性を保っていること、空間が広がっていること、人類(他者)がここ数百万年地上に生息していたこと、等等を漠然と信じている。
哲学的センスの持ち主はこれらの枠組を徹底的にしかも単に理論的にではなく体感的に疑うことができる。
(2)とはいえ、漠然とすべてを懐疑の渦の中に投入することが哲学的センスなのではない。
デカルトのように真理を求めることと表裏一体となった懐疑が必要なのだ。
存在や認識、あるいは時間や自我や善悪という伝統的テーマに、他のことが思考不可能になるほど徹底的に引き回されることが必要なのだ。
よって、いかに天才的芸術家であろうと超一流の科学者であろうと、以上の問いに躓かないかぎり、哲学的センスを具えているとは言えない。
(3)言い換えれば、哲学的センスとは、世界を解体する打ち所を押さえているセンスであり、解体作業計画に情熱を燃やすセンスである。
まったく新たな世界を構築するために、この世界を徹底的に解体しようという野望をもつ者である。
(4)しかも、それは空想へと物語へと非常識へと飛翔するセンスではなく、例えば「今とは何か」という単純な問いに留まるセンスである。
そこに無骨に留まり、そこから抜け出ることを拒否するセンスである。
(5)哲学的センスの持ち主は、科学者のように手際よい回答を目指さない。
答えやすいように問いを変形しない。
無理に割り切らない。
対象の割り切れなさをもちこたえる。
答えがないかもしれないことを薄々知りながら、無謀にもどうにかして答えようとする。
こうした非能率的な非合理的なセンスである。
(6)しかも、正確さを求め明晰さを渇望するセンスである。
答えがないかもしれないことを厳密に語り尽くそうとする。
答えがないかもしれないからこそ、それを「求め」つづけるセンスである。
(7)それは、また救われたい衝動を押さえつける強靭なセンスであり、われわれの世界が残酷無比のものであり、救いようのないものであろうとも、それが真実ならそれを引き受けようというセンスである。
救済や幸福より真理を優先させようとするセンスであり、ここが宗教的センスとは異なる。
(8)したがって、哲学的センスの持ち主はみずからの体感に沿った言語を駆使して、みずからの世界への態度を語り尽くそうとする。
彼は言語に怠惰ではなく勤勉であり、議論に怠惰ではなく勤勉である。
つまり、哲学的センスとはみずからの感受性に固執しながらも他者とのコミュニケーションに対して開かれているセンスである。
(9)哲学的センスは行為するセンスである。
生活と思索とを一体化しようとするセンスである。
言葉に責任をもつセンスであり、安全なところではなくみずからをあえて危険なところに追いやって語るセンスである。
(10)哲学的センスの持ち主は、傲慢ではなく謙虚であり、おのれの思索および生活の絶望的な貧しさを知っている。
おのれが何も知らないことを知っている。
おのれが道徳的に正しくないことを知っている。
しかし、いやだからこそ、彼はどこまでも真理を求めつづけ善を求めつづけるのだ。
彼はけっして「これでいい」と言うことがない。
****************
これでは、ソクラテスの妻ならずとも悲鳴をあげざるをえないだろうと思われもするのだが・・・、
それでも、坂口安吾の言葉を借りるなら「空にある星をひとつ欲しい」と願って、竹竿を振り回す者がなかにはいてもいいように思う。
もっとも、そういう御仁は探しても、なかなかいないというのが実状だろう。
星を欲しいと願うというより、星に魅せられて一生を棒に振るくらいの資質の持ち主でないと、ホンモノにはなれないにちがいない。